CHOYAシャツの歴史

1887

礼装、社交用シャツ発売礼装、社交用シャツ

1890

シャツの胸あて、カラー、カフスの自家製造を開始シャツの胸あて、カラー、カフス

1891

前割れ式シャツを生産前割れ式シャツ

1894

日清戦争勃発により軍用シャツを生産軍用シャツ

1896

浅野商店に潮谷という冠称をつける
1896年(明治29年)、創業者浅野百蔵は、浅野商店に「潮谷(ちょうや)」という冠称を付け、社名を潮谷号浅野商店とする。
2年後の1896年(明治31年)、潮谷商店と改称する。潮谷号浅野商店

1906

わが国初の穴かがりミシン輸入。
写真は当時のシャツに付けていた織りネーム。穴かがりミシン

テニスシャツ発売テニスシャツ

1909

大阪支店を北久太郎町に開設大阪支店を北久太郎町に開設

1912

近代シャツ工場を向島に開設近代シャツ工場を向島に

1914

第一次世界大戦勃発により国産40番手単糸使い綿布をシャツに使用国産40番手単糸使い綿布シャツ

1916

シンガポールで英国人向けシャツを受注シンガポールで英国人向けシャツ

1920

大阪に枚方工場開設枚方工場開設

新聞広告を掲載CHOYAシャツ新聞広告

1921

西新井工場建設西新井工場建設

枚方工場で生産技術者強化枚方工場で生産技術者強化

蝶矢シャツ製造所に改称蝶矢シャツ製造所

1925

新聞広告掲載蝶矢シャツ新聞広告

1928

セミソフトカラー発売セミソフトカラーシャツ

1930

世界恐慌で直販事業に着手世界恐慌で直販事業

1931

開衿シャツ発売開衿シャツ

1936

衿のシワを軽減する接着芯のシャツを発売衿のシワを軽減する接着芯のシャツ

1941

国民服を販売国民服を販売

1945

東京大空襲により東京店焼失東京大空襲により東京店焼失

1946

GHQによる財閥解体の影響で制限会社の指定を受けるGHQによる財閥解体の影響で制限会社の指定

1947

闇市で販売するシャツを生産闇市で販売するシャツ

信州にシャツ工場設立信州のシャツ工場

1948

焼け跡に社屋新築焼け跡に社屋新築

1951

戦後初の展示会を開催戦後初のワイシャツ展示会

1953

1953年(昭和27年)、前年より発売されたアメリカの特許技術による綿の防縮生地を使ったシャツを発売。50番手単糸使いで750円。綿の防縮生地を使ったシャツ

1960

スポーツシャツ24色展開スポーツシャツ

1962

東京オリンピックフェア協賛東京オリンピックフェア

1964

昭和39年第一回縫製技能競技大会が開催され、大阪通産局長賞を受賞。第一回縫製技能競技大会

1968

ニットシャツキャンペーン
1968年(昭和43年)、スポーツブームでニットシャツを多色展開。ニットシャツ

1969

フィットシャツをサイズ展開(100サイズ)フィットシャツ

1974

映画「パピヨン」とタイアップ映画「パピヨン」とタイアップ

1975

強撚糸使いの夏用ドレスシャツを発売強撚糸使いの夏用ドレスシャツ

1980

DCブームに先がけソフトシャツを発売DCブームのソフトシャツ

1993

綿100%形態安定加工シャツ発売

2004

日清紡績(現:日清紡ホールディングス)を引受先とする第三者割当増資を実施し同社の傘下に

2008

株式交換で日清紡績(現:日清紡ホールディングス)の完全子会社に

2009

CHOYA SHIRTショップ開業準備始動。復刻素材の資料収集で浜松の綿生地産地へCHOYA SHIRTショップ

2010

CHOYA SHIRTショップ開業CHOYA SHIRTショップ

2013

グランフロント大阪に関西初出店。グランフロント大阪

2015

山喜株式会社へ、百貨店卸売事業を含むCHOYA株式会社事業の一部を譲渡。

【CHOYA 1886】シャツカテゴリーとして初めてJ∞QUALITY認定。J∞QUALITY認定

2017

伊・ピッティウォモに【蝶矢シャツ】初出展PITTI UOMO

山喜の歴史に戻る